A.Uさん (A.U)  
薩摩川内市立 育英小学校 卒業

大阪桐蔭中学校(英数)
四天王寺中学校(英数Ⅱ)
帝塚山中学校(英数)     合格

シェルパのかかわり:小1から通常授業受講 及び 自学

「偏差値なんてもうどうだっていい! 行きたい学校にどうしても受かりたい! ―フマジメ体験記― 」
この1年は私にとってすごい1年でした。 このうれしさをわかってもらいたくて体験をありのまま書くことにします。
私の6年春の偏差値は30台で、総合でも40あたり(写真①)。それまで本気で勉強 したことは思い出してもありません。
提出しなければいけない宿題もわからないようにまびいてやったり、眠たくなったら問題を解いている最中でも寝たりするくらいの
不真面目さで、お母さんとは毎日ケンカでした。 それでも少しでも私がやる気になるようにと、お母さんがたくさんの合格体験記も
読ませてくれましたが、上手くいってる子やできる子の体験記を読んでもますますやる気がなくなるだけで、こういうのを国語で習った
『火に油を注ぐ』というんだと思っていました。(だいぶ後からちょっと違ってることに気付きました)
その時の私は、私立なんて絶対受からないと思っていました。あと半年で結果が出せるやり方じゃないと、もう間に合わなくなって
いたからです。 私が引っ越してから塾に通い始めたのが5年生の夏前。カリキュラムはもう進んでいて、社会や理科のテストでは
1問か2問書けるくらいで、頑張らなきゃという思いはあったけど、テストを受ける度に泣きたくなるような散々な成績で気持ちは
折れるばっかり…。 本当はお勉強が出来るようになって、いい偏差値も取ってみたかったけど、ひどい時は10点、偏差値27の教科(写真②)
もあったり、国語の記述は時間配分も出来なかったり、どこを書いたらいいかわからなくてずっと空欄で出し続け(写真③)、算数は完全に
ついていけなくなっていました。
気持ちは後ろ向きなままでどんどん過ぎて、ケンカはさらに激しくなって行きました。

そんな状態の私にお母さんが奥村先生ともう一度出会わせてくれました。
先生とお話しし体験記をもう一度読む中で憧れのA.Sさんという目標も出来ました。
先生は、お母さんにも言えなくなってしまっていた気持ちもすごくわかってくれました。
それから私の勉強は今までと全く違う奥村先生のやり方の勉強法に全部変えていきました。 結果は直ぐには出ないからと言われていたので、
ずっと教えてもらったとおりにコツコツと信じて頑張りました。

社会や理科が出来ない理由がわからず、塾のテキストを塾から言われたとおり繰り返しやっていたのですが、先生から知識の足りない部分を
指摘され、理科は特進クラスの理科やプリント、力の5000題、社会は力の5000題などを勧めてもらい、ていねいにこなしていきました。
テストは相変わらず出来ないままでしたが、先生の『今出来なくてええねん。入試の時に解けるようになってたらええんやから』の言葉で
気持ちがすごく楽になって、やり直しに全力を尽くすやり方に変えて、毎回、きちんと全部の教科をやり直しました。
わからない問題はコピーしてスケッチブックに貼って(写真④⑤)、塾に質問に持って行ったり、先生に送って電話やファクスで教えて
もらいながらやり直したりしました。 やっと少し結果が出始めたのが秋でした。まだ遅れてる勉強と並行しながら、
過去問を解き始めたけれど、その頃は全く解けませんでした。 それでも先生は解けなくて当然だから丁寧に繰り返すようにと言ってくれて、
3校分、満点が取れるようになるまで繰り返しました。 頑張ったら先生がほめてくれるのがうれしくて、すごく頑張れました。
いつの間にか受験前には、国語と社会は得意教科になっていて、東大寺の過去問の社会で1回だけですが満点が取れたり、
難関校の国語も簡単に思えるようになっていました。算数はとにかく演習量と言われ、問題を選んで解きまくり、でも難しい問題は
だいたいは解けないので質問に行き続け、その頃にはスケッチブックは4冊になっていました。
そのスケッチブックは今も私の宝物です。
入試の直前12月、それでも私の偏差値は志望校には届いていませんでした(写真⑥)
後から考えるとスピードがまだ足りていなかったのですが、自分の手ごたえとかに自信があったので『でも数字じゃない!』
と迷わず最初に目指した学校全部に出願しました。 入試当日、朝晩2回テストはさすがにつらかったです。
四天王寺は受験番号が後のほうだったので面接がすごく遅くなり、とても午後の試験には間に合わず泣きそうになりました。
しかし私は午後が第一志望だったので、気持ちがくじけないように頑張りました。 母は今まで見たこともないような笑顔で『だいじょうぶ!』
と言いながら手をつないで走ってくれました。
大阪桐蔭は『遅れても必ず来てください』と言ってくださったそうです。
試験が終わったら夜の10時近く。『終わった…』という気持ちでいっぱいでした。
発表までの数日は長かったです。 でも四天王寺は無理と思ってましたが、大阪桐蔭はなまいきにも落ちた気はしてないと言い続けていました。
ふたをあけてみれば、四天王寺も合格をもらい、3校とも○。 これには私もびっくりしました。
偏差値30台から、1年足らずで難関校に合格できたことは私にとってすごく大きな自信になりました。
そして、この春から憧れのA.Sさんの通う学校へ私も通います。 大嫌いだったはずの勉強が、この勉強方法で大好きになりました。
だから、私のようにお勉強が得意じゃない、好きではない人もあきらめないで頑張ってください。
私が間に合ったんだから、みなさんは絶対だいじょうぶだと思います。 

【シェルパから】
もう言葉がありません。
昨年のA.Sさんの型破りっぷりにもたいそうたまげましたが… そのA.Sさんに憧れた『A.Uさん』も最大の賛辞を込めて
『ハチャメチャな受験生』 と言わせていただきましょう。
出会いは東京…あちらの塾でお手伝いをしていたときに、いつも一番前の席でくりくりした目で見上げていた女の子…
月日が流れ、久しぶりにお話を聞いた彼女は見事に『変わり果てて』いました。
とにかく母娘関係がかなり険悪。塾も家庭教師も続かず転々としておられました。
この陰に、鹿児島に引っ越されて、お勉強や遊びへのスタンス、言葉などの違い から、かなり激しくいじめられていたという事実が
あったのを知ったのはずいぶん たってからです。 毎日が『学校へ通うこと』でいっぱいいっぱいだったのでしょう。
まずは彼女自身をいかに普通に戻すか…クラスメートの心理分析をし、その対処 法なども一緒に考えていきました。
そんな中で『A.Sさんというたいそう型破りな受験生がおったのじゃ…』というお話になったのです。
彼女は微に入り、細にわたりA.Sさんの事をたずね『かっこいい。素敵』を連発し、 うっとりと『私も桐蔭に行きたい…』と…

正直、内心(~_~;)こんな顔になっていました。『偏差値40からの逆転』は確かに前例もいくつかありました。
しかしそれはカンヅメ状態で徹底的な演習を重ねてのこと。500km離れてては…。 しかしせっかくのやる気を削ぐ理由もないので、
テキストを指定し『教室で預かっ たとしたらこうさせるつもりなんだけど~』という指示をとりあえず出しました。
そこから先は驚くべきことの連続。 もちろん『通う』ことはできませんから、時間を指定しての電話とメール、そして FAXでのやりとりです。
出遅れ方が普通ではなかったので出す指示はどうしても『無茶ぶり』になります。
でも…やってくるのです。次には出来てるんです。 お聞きすればご家庭は修羅場の連続だったようです。でも…とにかく進んでいる。
Faxでは間に合わない分は日能研九州 川内校の先生方を閉室寸前まで拉致して 質問攻めにし、愛用のスケッチブックをふくらませてきた
頃には『もしやひとつ くらいは?』と思えていました。
過去問も『覚えるくらいやらんとな…』とつぶやいたら3校分を3巡…徹底して いました。
かくして…3校とも掴み取ってしまいましたね。 一度も合格可能圏に入れないままに…
正直、塾の存在意義や受験勉強のあり方を根っこから覆されました。 あなたのことを他の塾や個別教室の広告で見たとしても、
私はきっと『捏造』と 決めつけたに違いありません。 それぐらい目の前で起きていても理解し難かった日々…
でも揺るぎない事実が ここにあります。 『ひたむきに信じること』の素晴らしさ(凄まじさ?)をそばで見せてもらえたことに感謝しています。 この記憶さえあれば、どんな困難すらも楽しめるんじゃないか… そう思います。

A.Uさんがどこまで翔けあがっていくのか…楽しみにしています。 ほんとうにほんとうにありがとう!